クルマとのコミュニケーションを楽しみながらハンドルを握る
2018年5月の横浜は、僕にとって忘れがたいドライブになるかもしれない。好きなメルセデス・ベンツG 350 dに乗ったからだ。
僕がこのモデルを気に入っている理由はなにか。「クルマばなれ」している点とでもいえばいいだろうか。
べつの言葉で説明すると、無機的でないというか、クルマとコミュニケーションをとりながら操縦できるような感覚が好きなのだ。

僕の所持品のなかでほかに例を探すと……ライカのフィルムカメラM6、レッド・ウィングのアイリッシュセッター、バブアーのワックスドジャケット、ストウブの鋳鉄ホーロー鍋などがすぐ思いつく。
ジーンズのリーバイスもそうだ。たとえば1890年の501XX(の復刻版)。当時のジーンズは作業のときのオーバーパンツである。
虫除けといわれるインディゴ染めはもちろん、すぐに履けるようにサスペンダーを使うためのボタンや、ジッパーと違いぜったいに壊れないボタンフライも機能的だ。
どれも共通するのは、合目的的に作られ、かつポリシーを持った製品であること。
「合理性」が生み出す、唯一無二の美しさ
日本における工業デザイナーの草分けである柳 宗理氏が唱えた、「用の美」(ことさらデザインされたものでない日用品にある美しさの意)に通じるものが感じられる。

メルセデス・ベンツGクラスも同様だ。
丸型ヘッドランプも、フラットなウィンドシールドも、ウインカーも、機能優先で考えられたデザインであるところがその美しさの所以であり、少しユーモラスともとれるアイコンとなった。
作ったひと(誰だかわからないけれど)が隅々にまで気を配って設計したことがわかる。そこがいまのクルマではなかなか出合えない魅力となっている。
べつの言い方をすると、これこそある種のクリエイティビティだ。日常的に使ううちに愛着が生まれ、ドライブという行為にべつの意味が出てくる。
乗るひとのクリエイティビティを刺激するクルマ
名作映画『第三の男』(1949年)の原作などで知られる英国の作家グレアム・グリーンは、『名誉領事』(早川書房・1974年)という評価の高い作品に、オフロード車を“犬のように”愛する英国人を登場させた。
すぐれた道具は使うひととのあいだに、特別な関係を生じさせる。ちょっと前にはやった言葉でいうとケミストリー(関係性の化学反応)。僕はGクラスに乗ったとき、そのグリーンの小説をすぐ連想したのだった。
G 350 dのステアリングホイールを握っていると、僕は自分とクルマとの距離がぐんぐんと近くなるのを感じる。
本格的なクロスカントリー型4WDであるがゆえあえて復元力を弱く設定したステアリングホイールや、路面の段差によっては斜めに車体が動くような感覚。
オフロードを走るときは、ギアの選択や、ディファレンシャルギアをロックする3つのボタンを適宜、自分で選ぶ。
これ以上の詳細はべつのひとが試乗記で触れているので、ここでは省かせていただくが、なにも考えずに運転できるクルマでない。使いこなすまでに多少の慣れが必要となる。
その時間こそ、僕にとってクリエイティブだと呼びたくなるものだ。フルオートでないものを使うとき、僕たちは頭を使い、感覚を研ぎ澄ませる必要がある。
昔のカメラは露出もシャッター速度も自分で調整するし、フィルム選びだって考えなくてはならない。ココット鍋での調理もボタン一つで、というわけにいかない。
そのぶん乗ったときの満足感の大きさは、なかなか他で得られるものでない。すぐれた道具が自分と一体化して、機能性をフルに活用できるときに味わえる昂揚感に満ちている。

横浜では、みなとみらいの広い道路での気分のいいドライブに加え、横浜中華街の隘路だろうと、まったく不安なく走れる取り回しのよさに改めて感心した。
さきに僕はレッド・ウィングのアイリッシュセッターなる、いわゆるワークブーツを例に出したが、トルキーでスムーズな2986ccV型6気筒ターボディーゼルエンジンによる市街地での軽快感はスポーツシューズ的ですらある。
すぐれたプロダクトは、核になる部分を大事にしながら、少しずつ時代に合わせて“進化”することも多々ある。その好例だろう。
ガソリンエンジン搭載モデルはGクラスの長い歴史の中で最も大幅に改良された新型がまもなく日本にも導入される。だからといって従来のG 350 dの魅力は、これまで書いてきたとおりで、けっして薄れていない。そこがすごいと思う。
ABOUT CAR
PROFILE
小川フミオ/FUMIO OGAWA

ライフスタイルジャーナリスト。クルマ、グルメ、ファッション(ときどき)、多分野のプロダクト、人物インタビューなどさまざまなジャンルを手がける。ライフスタイル系媒体を中心に、紙、ウェブともに寄稿中。