人類誕生の地、アフリカ大陸の最南端に位置する南アフリカ。およそ400万人の人口を抱えるケープタウンを起点に、目的地をあえて決めず、気の向くままに西ケープ州を巡る2週間の旅は始まった。最初に降り立ったケープタウン国際空港は、ヨハネスブルグに次ぐ同国で2番目に大きな都市への玄関口だが、右側にターコイズブルーの美しい海、左側に勇壮なテーブルマウンテンとライオンズヘッドを見下ろしながらの着陸は、ケープタウンが国立公園の真ん中にあることを存分に知らしめる光景だった。

空港で迎えてくれたのはマーカス・ホーパーだった。ケープタウンにやって来る観光客やフォトグラファーなどを相手に、クラシックなメルセデスのレンタカー業を営むドイツ人だ。「このクルマは右ハンドル。左側通行の経験はあるかい?」。イングランドやインドで運転したことがあると言うと、彼は大丈夫とばかりにうなずいた。「スペアタイヤはOK。エンジンオイルとクーラントは定期的にチェックするように。他に質問は?」。次の予定が迫っていたマーカスのレクチャーは矢継ぎ早で、拍子抜けするほど簡潔なものだった。「刺激に満ちた、最高の旅になることを祈っているよ。2週間後にまた会おう!」。用意してくれたのはシルバーグリーンメタリックのW116、350 SEだ。

現在のクルマと比較して、350 SEのボディラインはなんともシンプルだ。クロームのトリム、アルミのホイール、素晴らしく控えめなボディカラー。38年が経った今でも、なんとエレガントで魅力的なのだろうか──。そんなことを考えながらスーツケースをトランクに押し込んだものの、開けたドアは助手席側だった。そう、このクルマは右ハンドル、ここは南アフリカだ。気を取り直して運転席に座り、ミラーを調整する。キーを捻るとV8エンジンは、かすかな振動をともなってリズミカルに回り出した。冒険の始まりだ。


ネルソン・マンデラ・ブルーバード(ハイウェイ)を東に向かい、ケープタウンをあとにする。粛々と単調なハミングサウンドを奏でながらも、アクセルを踏み込んで追い越しをかけるときには勇猛果敢、アグレッシブな一面を覗かせるV8エンジン。風に揺れるヤシの木はまるで、ジャニス・ジョプリンのライブに熱狂するヒッピーの髪の毛のようだ。開けた窓からは、みずみずしさや焼けた匂いの混じった畑の香りが飛び込んでくる。
ケープワインランド群の丘陵地帯でドライブを楽しもうと、途中のステレンボッシュでハイウェイを降りるつもりでいたが、ふと思いついてそのままストランドに向かう。南にあるベティ湾へと続くR44、Whale Coast Route=鯨の海岸ルートを走ることにしたからだ。ときおり現れる広々としたビーチに、人影を見ることはない。あるのは、サメの危険を知らせる黒い旗だけ。コッヘルベルフ自然保護区のある天に向かって立ち上がる険しい山々と、ターコイズブルーの海の境目を走り抜ける海岸線はなるほど、世界でも指折りの美しいロケーションだろう。大西洋の青さは、水平線のずっと向こうまで続いている。

険しい山々、白いビーチ、ターコイズブルーの海──。道路脇や傍らの崖からヒヒたちが眺める美しい景色のすべてを、まるで自分だけのもののようにして味わい、350 SEの鼻先を内陸に向けた。道を進むにつれ周囲の表情は様変わりし、たくさんのブドウ畑と果樹園、それを取り巻くような茶色の大地が視界に飛び込んでくる。海側から内陸のスウェレンダムに向かう山道でギアをNレンジにしてみる。R324のダウンヒルレースのコースのような坂道は、くだらない好奇心を抑えきれないほど刺激的だ。坂を抜けてDレンジに戻し、淡々としたクルージングで進む道は、太陽に照らされキラキラと輝き、揺らめいている。この地には即物的ではない、永遠のように思える“何か”があるような気がした。

渓谷にあるスウェレンダムの夜明けは、早起きをする価値がある見事なものだった。しかし、得をした気分に浸っている余裕はさほどない。プリンスアルバートに抜けるスワルトバーグ・パス(峠道)が待っているからだ。観光ルートにもなっているR328だが、およそ27㎞におよぶ道程はほとんどが砂利道。何も起きないという保証はない。そんなルートを350 SEがポツリと1台だけ走っている様子に、鳥たちやオリックスの群れが少々驚いている。荒々しい岩肌が迫るジグザグのカーブを抜けると、ぽっかりと空いた何もない空間が広がり、スワルトバーグ山脈にぶつかった雲は散り散りになっていく。初めて目にする圧倒的な光景が、次から次へと押し寄せてくる。ここは人間が造った、もっとも魅惑的な道ではないだろうか。
メインストリートに18世紀の家々が立ち並ぶプリンスアルバートの町中で自分に“給油”を済ませたら、今度は350 SEの番だ。アフリカを走るルールに従い、唯一のガソリンスタンドでは満タン、そして5ℓの水を確保することを忘れなかった。再び足を踏み入れたスワルトバーグ・パスはすっかり日が高く、ボンネットの先のスリーポインテッド・スターが輝きを増している。旅の終わりをいくらか先送りにするために立ち寄った川は雪解けの冷たい水が流れ、人の手ほどもある大きなカニが暮らしていた。足元の魚たちは驚きもせず、いつもどおり平然と泳いでいる。無意識に過ぎてゆく“瞬間”のひとつひとつが、とても愛おしい。