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写真家・石川直樹、メルセデスで知床半島の秘湯へ

辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら作品を発表し続ける、写真家の石川直樹氏。Gクラスで訪れた、知床半島の冬の記録。

北海道の東の果てにある知床半島に足繁く通っている。ぼくはこの地で『写真ゼロ番地』というグループを作って、写真を通じて新しい知床の魅力を見つけるプロジェクトを進めている。写真展やワークショップ、トークイベントを開催したり、関連する冊子も作っている。

ある日、ぼくは知床の玄関口である斜里の市街からさらに離れた越川という集落を車で訪ねた。ここには秘湯とも言うべき共同温泉がある。公共の交通機関で行くことは不可能で、車でしか行くことができない。
道路には看板も何もないので、知らない人が立ち寄るということもない。地元の人以外でここに入りに来る人は、よほどの温泉マニアしかいないだろう。

温泉の場所を指し示す目印が一つだけあって、それはすぐ近くに越川橋梁という十連のアーチ橋の遺構が残っていることである。大正後期、開拓のために、北海道各地で鉄道の建設計画が進められた。この橋もその一環で作られたのだが、工事が難航し、そのまま第二次世界大戦が勃発。終戦後も放置され、列車も人も一度も通ることなく、橋だけが残された。朽ちつつあるこの越川橋梁が道路から見えたら、左手に砂利道の入口を探して、左折する。すると、野趣あふれる越川の共同温泉が現れる。
この温泉に初めて浸かったのは2018年の正月明けだった。友人の写真家、石川竜一君と二人で訪ねた。あたりは一面の雪で、路面は凍結し、Gクラスが活躍してくれた。ぼくたちは温泉の前で車を停めた。

越川温泉には電気が通っていないので、室内は真っ暗である。が、住民たちは自分たちの車のバッテリーを使って明かりを灯していた。すでに先客が車から電気を引いている場合は、あとから来た客がそれを素早く自分の車に付け替えて、電気を通すルールになっている。そうすれば、あとから来た客が時間を気にせずゆっくりと風呂に入れるからだ。
ぼくは小屋の外壁につているコードを引っ張ってきて、Gクラスのボンネットをあけ、そのコードをバッテリーと接続させた。電気がなくて自ら電力を調達しなければいけないこんな温泉、他に存在するだろうか…。

入口の扉を開けると貯金箱のようになったドラム缶が置いてあり「200円」と書かれている。ここに200円を入れれば、温泉に誰でも入っていいことになっている。

更衣室に行くと、先客のおじいさんが湯から出て着替えているところだった。<シシプ、カミソリは持ち帰ってください>という貼り紙が壁に貼ってある。「シシプ」を最初はシャンプーかと思ったのだが、客層から考えると「湿布」のことかもしれないと思いあたる。
浴場内にもう一人おじいさんがいた。浴場にはシャワーも水道も石鹸もシャンプーもない。浴槽といくつかの風呂桶があるだけだ。

「どこからきた?」
「東京です」
「なにしにきた?」
「ぼくたち写真家なんです」
「へえ」
じいさんとそんなやりとりをしながら、初めて越川温泉の湯に浸かった。完全に源泉かけ流しだが、そのままだと熱すぎるため、川の水を引いて温度を調節している。
ぼくは長湯ができない性格なのだが、このときばかりはできるだけ長く湯に浸かろうと思った。水温は高めで熱く、浴場は湯煙が充満している。煙の隙間から竜一君の背中にある変わった刺青を眺めつつ、ぼくは熱すぎる湯に顎まで浸かり、至福の時を過ごしたのだった。
がんばって長く湯に浸かりすぎて、更衣室では眩暈がした。温泉の成分も強めなのだろうか。アラスカのフェアバンクスで、水着を着て入る温泉から出た後も同じような状態になったのを思い出す。

ぼくは破れかけたソファに深く腰をおろした。脱力した状態で呆けていると、徐々に湯あたりと眩暈から解放され、心地よくなっていく。

しばらくすると、わずかに寒さを感じたので帰ることにした。外は暗く、気温はマイナスだが、体の芯は暖かい。外に出て車のボンネットからバッテリーのコードを外すと、温泉の明かりがすとんと消えた。急いで車に乗り込みエンジンをかける。砂利道の振動を体で受け止めながら古い橋のあいだをくぐると、そこは暗くて静謐な雪の森だった。

この先に街がある。街の明かりに触れるまで、このほのかな暖かさが体の中から消えなければいいな、と思った。

PROFILE

石川直樹/NAOKI ISHIKAWA

石川直樹/NAOKI ISHIKAWA

1977年東京生まれ。写真家。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。最近では、ヒマラヤの8000m峰に焦点をあてた写真集シリーズ『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』『K2』(SLANT)を5冊連続刊行。最新刊に写真集『知床半島』(北海道新聞社)、『Svalbard』(SUPER LABO)、著書『ぼくの道具』(平凡社)がある。

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