AMG50周年。すべてはスパ・フランコルシャンから始まった。
レーシングドライバーにして著名な自動車ジャーナリストである故ポール・フレール先生はベルギー生まれであるがゆえに、この国に開催される伝統的なレースとして知られるスパ・フランコルシャンをこよなく愛していた。私が師と仰ぐ大先輩の一人であるが、私自身も2度ほどスパのレースに参戦したことがあった。師と交わした言葉で記憶に残っているのは、オー・ルージュと呼ばれる超高速のS字コーナーについてのコメントだった。旧ピット前の下りのストレートをスロットル全開で疾走する。心地よい、いや、迫力あるエグゾースト・サウンドがアルデンヌの森にこだまする。その先にあるのは高速のS字コーナー。しかも、下りきったところで、ステアリングを左・右と瞬時に操舵する。そこからは急な上り坂となるので、スロットルは戻せない。勇気あるドライバーはスロットルを緩めずに、ステアリングをさばく。失敗すればクラッシュする。
フレール先生は「オー・ルージュはドライバーとマシンにとって世界一むずかしいコーナー」と私に囁いたことがあった。オー・ルージュとは赤い水を意味する。サーキットができる前は、赤い水が流れる川が存在していたが、実際は川の岩が赤かったのである。
1971年——約14kmの旧コースで開催されたスパ・フランコルシャン24時間耐久レースでドラマが起きた。Mercedes 300 SEL 6.8 AMGで参戦した名もなきチームは、大方の予想を覆し、クラス優勝を飾り、総合でも2位に入るドラマチックな結果を残したのである。これがAMGの名が歴史に刻まれた瞬間だった。

AMGはすでにドイツのツーリングカー選手権(DTM)に参戦し、1965年シーズンには300Eで年間10勝を挙げるなど、実績は上げていたものの、1967年に設立した新星チームがわずか4年で掴み取った栄光こそ、AMGの原点であった。それは紛れもなくサーキットで鍛えられた栄光だった。
AMG社はもともとダイムラー・メルセデスにおいて、エンジン開発に従事していたハンス・ヴェルナー・アウフレヒトとエアハルト・メルヒャーが設立したエンジン設計会社である。ふたりは300 SELのレーシングユニットを担当していたのだが、会社のモータースポーツからの撤退を機に個人的にレース用エンジンの研究開発を継続。1965年には前述の通りレースで10勝を挙げ、1966年末にメルセデス・ベンツを退社。そしてドイツ・グローザスバッハの地に、AMG社(A=アウフレヒト/M=メルヒャー/G=グローザスバッハ)を立ち上げた。1967年のことだ。レーシングエンジンの開発に没頭し、会社を辞してまでレースへの情熱を貫いたアウフレヒトとメルヒャーによって、AMGは誕生したのである。
モータースポーツでの成功を機に、AMG社はロードカーの分野にも参入していくわけだが、ふたりのバックグラウンドが示すように、エンジンへの執着は並々ならぬものがあったようだ。そして生み出された、W117型Sクラス用のV8をW124型Eクラスに搭載した「AMG 300 E 5.6」、通称、“The Hammer(ハマー)”がその名をさらなる高みへと導く。草創期においては、ひとクラスの上の大きなエンジンを小さなボディに搭載するという、ある意味安易にも思える手法を取り入れていたAMG社だが、それをマネージメントするノウハウは他のチューナーが有していたものではない。
その後、AMG社はダイムラー・ベンツとの距離をより一層縮めていく。1980年末にはオフィシャルレーシングパートナー契約を結び、1990年には協力協定を締結。レーシングの世界で勝ち得た信頼感をロードカーにも活かしていくことで、1993年には、AMG社というよりもアウフレヒトとメルヒャーにとって念願だった古巣メルセデスとの共同開発モデル、「Mercedes-Benz C 36 AMG」が完成する。ブランドイメージを一新したコンプリートモデルとして、その地位を一気に築き上げたことはもはや周知の事実だ(この年、AMGはブランドとして特許庁に認められた)。日本にもAMGジャパンによって正規輸入されたが、それまで過激なチューナーだったAMGがメルセデスのハウスチューナーとしてのポジショニングを得て、セールス面で成功を果たした。もちろんモデルとしても洗練された完成度が支持され、多くのファンを得るに至った。

C 36 AMGの登場以降、飛躍的な成長を遂げていったAMG社は、1999年にはダイムラー・クライスラーに株の過半数を譲渡。モータースポーツ部門はアウフレヒトが立ち上げたHWA社(現在においても、Mercedes-AMG GT3の開発やDTMでのメルセデスの活動を統括)が引き継いだ。規模拡大によって、ロードカーの生産についてはシュツットガルトのメルセデスの工場でボディを組み立て、エンジンについてはAMGの本社工場であるアフォルターバッハで行うようになった。2005年にはダイムラー・クライスラーがAMG社の全株式を取得し完全に子会社化したことは、AMGの歴史の中で最大の分岐点となったのは言うまでもない。
いっぽうメルセデスとしては、ロードカー部門を手に入れ、AMGブランドの価値を利用して、セールス拡大を狙った買収だった。それが今ではメルセデスの量産ラインアップのパフォーマンスモデルとして位置付けられ、AMGラインとしてオプション展開されているのは皆さんもご存じのとおりだ。モータースポーツでその名を轟かせ、チューナーとして成功を収めたAMGは、創業者の手を離れ、ひとつの時代が終わりを遂げたのである。いまやメルセデスの1ブランドとして存在し、その役割はまったく違うものに変化した。
現状を踏まえて、9月のフランクフルト・モーターショー2017で披露された「Mercedes-AMG Project ONE」がいかなるモデルなのか、探ってみると、そこにAMGの未来への方向性が見えてくる。

Mercedes-AMG Project ONEは以前より、その開発プロジェクトが示唆されていたモデルだが、AMG 50周年記念の象徴として発表された「F1マシンのロードゴーイングバージョン」である。ハイライトは、メルセデスの2017年のF1マシン、「Mercedes-AMG F1 W08 EQ Power+」のテクノロジーがふんだんに盛り込まれている点だ。エンジンは1.6ℓV型6気筒に、リアアクスルとターボチャージャーのタービンの駆動用に各々ひとつずつ、フロントアクスル用に2つ、合計4つのモーターをセットしたハイブリッド。パワー自体は1000ps(エンジン関連で680ps/フロントモーターで163ps×2)を超えている。EVのみの航続距離はわずかだが、それでも25kmの走行が可能だ。

シャシーは炭素繊維強化プラスチックのモノコックタブ、ドアはポップアップ式、加えて前出のフロントモーターなど、オンロードカーゆえに、F1マシンには搭載されていないシステムを採用しながらも、F1タイプのステアリングホイールなどでの演出も忘れていない。ハイパーカーといえば、約4年前のポルシェ918スパイダーやマクラーレンP1が記憶に新しいが、メルセデスはAMGの名を冠し、さらにF1マシンの技術とイメージを付加させて登場させたことに意味があるようだ。
メルセデスは2012年からF1チームのネーミングの中に“Mercedes-AMG”の名を入れ、体制も改めているが、F1マシンのエンジン開発を行っているのはAMG社ではない。担当しているのはイギリス・ノーサンプトンシャー州にあるMercedes-AMGハイパフォーマンス・パワートレインズ社。その昔、F1ザウバーチームと協力関係にあったイルモア社を前身とするレーシングエンジン開発会社だ。
2005年に買収し、グループ傘下としているが、メルセデスAMG社のハイブリッドモデルの技術ベースとなるMercedes-AMG F1 W08 EQ Power+は、ここが生みの親。あくまでメルセデスとしては、メルセデスAMGというレーシングイメージの高いブランドをF1の世界にも波及させ、より昇華させていこうという戦略なのである。
レーシングファクトリーでありチューナーだった頃から、50年の歳月を経てメルセデスの最重要ブランドとして新たな道へと進み出したAMG。他のメイクスと比較しても、BMWのBMW M社やアウディのAudi Sport GmbHとは一線を画す、次なるステップに到達しようとしている。

東京モーターショーでは、Mercedes-AMG Project ONEの他にも、AMGパナメリカーナグリルを採用したMercedes-AMG GT S Coupéや、Mercedes-AMG E 63 S 4MATIC+なども展示をしているが、これまでの50年の歩み以上に、AMGのこれからの50年に、どのような変革が待ち受けるのだろうか。メルセデス・ベンツを牽引するブランドとして、ロードカー分野やモータースポーツ分野において、大きな役割と使命を担っていくに違いない。
モータージャーナリスト 清水和夫

1954年生まれ東京出身。1972年のラリーデビュー以来、国内外の耐久レースで活躍する一方、モータージャーナリストとして、多方面のメディアで執筆し、TV番組のコメンテーターやシンポジウムのモデレーターとしても多数出演。国際産業論に精通する一方、スポーツカー等のインストラクター業もこなす異色な活動を行っている。